歴史というのは勝者の視点で作られた過去の出来事の記録であり、わたしたちが日頃目にしているニュース、耳にしている話がいつも事実とは限りません。

どこかに先入観が混ざり込んだものである可能性を秘めています。

21世紀の現代は200年前の産業革命から始まる経済戦争の勝者、イギリス・アメリカを中心として作られた世界であり、世界史として編さんされているのも、その流れをくむ西洋を中心とした物語です。

世界中に経済的敗者はたくさんいますが、その中でも争いが絶えないイスラエル・パレスチナ地域について、アラブの歴史家はどのように見ているのでしょうか。

ことの発端は約1000年前の十字軍遠征の時代に遡ります。

 

アラブが見た十字軍 ー アミン・マアルーフ

 

フランクがやってきた

十字軍というのは西洋側の呼称であり、アラブでは当時、単に「フランク人」と呼ばれていたようです。

11世紀、西洋の経済中心はコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)を首都とした東ローマ帝国にあり、西側ヨーロッパはローマ統治のもと分断された小国家が林立する状態にありました。

アラブ地域からみてお隣の東ローマは強力な帝国でしたが、素性は知れており、十分に豊かなこの国は無理に攻めて来ようとはしません。

お互い牽制しあいながら、なんとか均衡を保っている状態でした。

 

そんな中東地域にフランク人の船団が現れたのは11世紀の終わりごろ、1096年のことです。

乗っているのは、日頃接しているコンスタンティノープルの文化的な西洋人とは違い、ずいぶんと荒くれ者で金髪、碧眼の巨人たち。

この正体は西方のイタリア・フランスの地域から派遣された十字軍だったわけですが、当のアラブの人々にはそんなことはわかりません。

教養のかけらもない脳筋の集まりが、何かを叫びながらトルコの村々を襲い始めているという噂がたち、アラブ人は恐怖におののきました。

 

何が目的か?  目的地はどこか? いったい何がしたいのか?

最初は謎だったフランク人の目指す先が、どうも聖地エルサレムにあるらしいということがわかるまでそれほど時間はかかりませんでした。

彼らは、行軍しながら狂信的に叫んでいたのです。

異教徒の手から聖地をとりもどせ、と。

 

アラブ、小国のあつまり

コンスタンティノープルからトルコに侵入したフランク部隊は、アラブ諸侯が寄こした本格的な軍隊に、初戦はあっさりと蹴散らされてしまいました。

これは十分な準備もなく出発した民衆十字軍だったのですが、ほどなくして派遣された第一回十字軍は分厚い金属製の鎧をまとい、アラブ諸侯の攻撃にしぶとく耐え続けます。

フランク人の目的が聖地エルサレムにあると知った諸侯たちは、エルサレムが占領されることそのものよりも、それによって自分たちの領土に危害が及ぶことを警戒します。

そのため、相手が少々手強いと見るや否や、各都市のアラブ諸侯は政治に明け暮れるようになります。

当時のイスラム世界は、バクダッドを中心とするセルジューク朝が支配していましたが、弱体化が進んでおり、イランから遠いトルコ・シリア地帯は部族ごとの小国家が林立している状態でした。

フランク人は手強かったものの、各アラブ諸侯にとってもっとも脅威だったのは隣接する小国家のアラブ同志であり、自分が矢面に立つことで漁夫の利を取られまいとお互いに牽制しあいました。

 

そのためさしたる抵抗もなく、フランク人はシリア国境付近にまで到達し、第一回十字軍最大の戦いであるアンティオキア攻囲戦が始まります。

アンティオキアは現在は跡形もなく、トルコ南部の一地方都市アンタキヤとなっていますが、当時はこの地域の中核都市でありました。

川と山脈に囲まれ長さ12㎞の城壁をもち、食料備蓄豊富なアンティオキアとフランク人の戦いは、半年以上続くにらみ合いとなりました。

年が明けて冬が到来した1098年、フランク陣営は飢餓に襲われて弱体化の一途を辿り、アンティオキアの領主、ヤギ・シヤーンはこの間に同盟軍を組織しようと周辺国を奔走します。

しかし、周辺国諸侯の足取りは鈍く、戦わずして逃げ帰るような無様な出兵を繰り返しているうちに、アンティオキア側から裏切り物が現れ、都市は占領されてしまいます。

このときアラブ世界がもっと早くに一つの旗の元団結できていれば、その後200年続く占領の時代はやってこなかったかも知れません。

占拠されたアンティオキアは、西側諸国におけるアラブ支配の重要拠点・アンティオキア公国と名乗り、逆にアラブ世界全体ににらみをきかせることになります。

 

エルサレム陥落

アンティオキアを失ったのち、フランク人は聖地に向けてまっすぐ南下して行きます。

途中のいくつかの街はあっけなく陥落し、ついに1099年、アンティオキアが陥落してから約1年後に聖地エルサレムも占領されてしまいます。

エルサレムでの抵抗は、アンティオキアが半年以上持ちこたえたのに対して、数ヶ月と非常に短い期間しか持ちませんでした。

聖地が占領された後、他のアラブの沿岸都市は次々と脅かされることとなり、約40年におよぶ暗黒の時代へ突入します。

この間でフランク人が各地にもたらした災厄の伝承は、アラブ世界に西洋人の忘れがたい邪悪なイメージを植えつけました。

ある村では野蛮なフランク人が、アラブ人を焼いて食べたとも言われます。

他方フランク人は、食料がなかったため空腹のあまりやむを得なかったというふうにローマ法王に報告しているようです。

このような伝承が、後に1000年続く対立の一端を担っているのは間違いないでしょう。

 

まとめ

フランク人からしてみれば、数年来の遠征の成果がみのり、苦労して目的を達成したわけですから輝かしい勝利です。

はるばる遠征してきたフランク諸侯の大半は、エルサレムの奪還という華々しい戦果を手に故郷へ帰っていきました。

残されたアラブ地域の住民は自らの頼りない王たちに失望し、残ったフランク人に怯えながら神に祈りを捧げる日々を送るしかありません。

 

皮肉にもこの暗い出来事が、後に全世界に名を残すアラブの英雄を生むことになります。

しかし、それには彼らの頼りないアラブの王たちが舞台から姿を消し、その息子たちの時代の到来するまでの長い年月を待たなければなりませんでした。

 

次の記事:

第二話 アラブの戦神と小さな希望。

第三話 聖王の治世。公正と平穏の時代。

第四話 英雄の立身。偉大なる師匠。