第一回十字軍では、フランク人はアラビア半島の地中海側沿岸を南下し、エルサレムを奪取しました。

 

過去記事:アラブがみた十字軍。

 

その後、一部は引き上げたものの、依然としてアラブに残ったフランク人は周辺への侵略を続け、エルサレム占領から約25年後の1124年には、ほぼ地中海沿岸全域を支配化に納めることに成功します。

そして、沿岸部を制したフランク人は内陸部への圧力を強め、ダマスカス、アレッポといった大都市が危機に瀕していきます。

 

アラブの戦神

アラビア半島の地中海側沿岸から遠く離れた内陸の、イラン北部にモースルという町があります。

 

 

 

この町の領主・カルブーカの元に、イマードゥッディーン・ザンギーという、養子に出されていた一人の青年がいました。

エルサレムがフランク人に占領された時に10歳だったザンギーは、その後活動の功績が認められ1127年にモースルの太守となります。

 

 

肌は焼け、ひげはもじゃもじゃのこの戦士は、それまでのフランク人との戦いであえなく破れたアラブ人武将たちとなんら変わりがないように見えました。

大酒呑みで、目的達成のためには手段を選ばない残忍さと不誠実さをもちあわせていました。

しかし、軍隊の運営方法は他の武将とは大きく異なりました。

 

他のアラブの武将は金品に目がなく、戦闘で成果が出れば略奪を繰り返し、油断してその後にその勝利を台無しにしてしまっていました。

一方ザンギーは、規律に厳しく、厳格で、小さな勝利に目を奪われることもなく、イラク・シリア中を駆け巡り、休むことなく戦い続けました。

フランク人だけでなく、アラブ人同志にも陰謀を企て、生涯を通じて戦いに明け暮れ、どこかで平和に暮らそうなどという気はさらさらないような人物だったようです。

 

ザンギーの快進撃

意外にもザンギーが初めてフランク人と戦ったのは1137年、彼がモースルの太守になってから10年も後のことでした。

当時のイスラム王朝・セルジューク朝は、文明の末期で部族間の内乱が多発しており、ザンギーの前半生はアラブ人との戦いでした。

 

フランク人とザンギーとの第一回戦は、ザンギーがダマスカスとアレッポの中間に位置する都市・ホムスを攻略しようとしたときに起こります。

ホムス近くのバーリンの城塞で行われたこの戦いは、ザンギーの動きがあまりに素早く、周辺都市から慌てて援軍に駆けつけたことで消耗していたフランク人はいとも簡単に撃破されてしまいました。

 

フランク人との初戦を難なく勝利したザンギーの次の相手は、長くの沈黙を破ってシリア北部を南下し始めた東ローマ皇帝ヨアンネス・コムネノスです。

これに駐在フランク人との連合が実現し、巨大な連合軍となって最初の攻撃目標だった都市シャイザルに到達します。

アラブの一武将にすぎないザンギーからしてみればあまりに大きな数万の大軍であり、正面からでは勝ち目はありません。

ザンギーは全アラブ世界の指導者に対して使者や扇動者を送り、援軍を送るよう呼びかけます。

同時に、フランク連合軍に対しても風説の流布や仲違い工作、ゲリラ戦などをしかけ、内部崩壊をもくろみます。

東ローマ皇帝はこれらの工作による同盟フランク人への不信感や、全アラブ世界からの援軍の噂に恐れをなし、シャイザルの包囲を解いて退却してしまいました。

 

フランク人のみならず、東ローマ皇帝をも退けたというザンギーの噂は、アラブ世界をかけめぐり、救世主のようにあがめられました。

ザンギーはこの機運に乗じて攻略中だったホムスを落とし、次の矛先をフランク人に初めて占領された町・エデッサに向けます。

アンティオキア攻囲戦の前にフランク人の手に落ちたこの町は、いってみれば侵略のはじまりとも言える町であり、あれから約半世紀の月日が流れたアラブ世界にとっては隔世の感があったことでしょう。

 

エデッサのフランク人領主は、アンティオキアやエルサレムからの援軍を待ち望みますが、その甲斐なく城壁はザンギーに破られ、50年にわたってフランク人支配下に置かれていたエデッサは、再びアラブの元に戻りました。

これによってザンギーの名声は頂点に達し、アラブの当時の記者たちがつけた呼称で、その興奮が伝わってきます。

 

厳格にやるなら、王に言及するときにはこう始めなければいけない。

殿、大将、大公、義公、神の加護、戦勝公、無二公、教えの御柱、イスラムの礎石、イスラムの飾り、万物の保護者、王朝の友、教養の助け人、民族の英雄、諸王の名誉、スルタンの支え、不信心者・反逆者・無神論者への勝者、イスラム軍最高司令官、勝利王、諸侯の王、戦功の太陽、二つのイラクとシリアの太守、イランとバフルアワンの征服者、ジハン・アルプ・インアサジ・コトログ・トグルルベク・アターベク・アブー・サアイード・ザンギー・イブン・アク・スンクル、信徒の長の保護者。

 

戦神の死

アラブの希望が頂点に達したエデッサの回復から2年、終わりは突然やってきました。

次なる戦いに向けて準備を行っていたザンギーはある夜、いつものように酒を飲んで寝ていたところをフランク人の家臣に短剣で刺され、あっけなくこの世を去ります。

この家臣は軍規違反で罰せられようとしていたところを恐れ、このような暴挙に出ました。

最後まで厳格を貫いた、自らの軍隊の中にできた小さなヒビに、足をすくわれることになってしまったのです。

ザンギーの死後、厳格な主人を失った彼の軍団は霧散しました。

アラブ世界は再び、内乱とフランクの逆襲に怯える時代に戻ってしまうかに見えました。

 

小さな希望

1146年のザンギーの死から時を遡ること約15年前。

まだザンギーがフランク人と戦う前、アラブの内乱に明け暮れていた頃、とある町での戦闘でザンギーの部隊は寸断され、敵に囚われそうな事態に陥りました。

あわやというとき、一人の男が分け入ってザンギーの命を救い、追手から逃れさせ自陣へ全速力で送り届けてくれました。

 

この男は名をアイユーブといいました。

アイユーブはザンギーを敵に売り渡すこともできたのですが、そうしなかったことに「武士の情け」を感じ、ザンギーはアイユーブとその一族に一生の友情を誓ったといいます。

 

アイユーブは、ザンギーとのこの出来事のあと数年後にひとりの子を授かります。

この子供は後世、サラーフ・アッディーン、西側世界からは通称サラディンと呼ばれることになります。

 

まとめ

フランク人の到来から半世紀が経ち、ようやくアラブ世界に希望の光が見え始めた時期ですが、まだ先には暗雲が立ち込めていました。

戦神ザンギーは去り、アラブは再びいつ終わるやともしれない内紛に突入します。

そして、初めての本格的な敗北に危機感を募らせたフランク人は、強力な援軍を組織し始めます。

第二回十字軍のはじまりです。

 

次の記事:聖王の治世。公正と平穏の時代。

 

アラブが見た十字軍 ー アミン・マアルーフ