春ですね。
桜も咲き始め、新生活、新社会人という方も多いでしょう。
フィリピンから帰ってきて以来、1ヵ月近く更新が滞っていたわけですが、何をやっていたかというと、会社辞めました。
正確には辞めて別の会社で働き始めました。
前職は日本では知らない人はいないくらいの大企業だったのですが、やめてやりました。
ただの転職なら大した話ではないのですが、規模が数兆円を超えるレベルの企業をやめるっていうのは、世間的にはなかなか少数派なので最大限ネタにさせていただきます。
わたしの場合、新卒数年で飛び出すようにやめたというわけでもなく、じっくり10年間も勤めて妻も子どももいる状態で辞めたっていうのもポイントですw
同じように超大手企業で悶々としている中年諸氏の参考になれば幸いです。
やめてみた感想はどうか
フィリピンから帰国後にベンチャー企業に入社したのですが、現在働きはじめて約1ヶ月。
今のところ前職より悪くなった点は一つも見当たりません。
というと正直ではないのですが、1割程度の年収と、社会的信用度は下がっていると感じます。
今のところ特に実害を被ってはいませんけどね。
1割程度年収が減ってもちゃんと貯金してあるので、20年くらいは大丈夫でしょう。
得られたモノ
数えきれない程ありますが、本当に身にしみて感じるのは友人と自由です。
友人というのは新たな企業で知り合った友人、というわけではなく、かつて同じ会社に勤め、途中で辞めて行った友人たちです。
日本でも転職は一般的になったというものの、やはりレガシーな大企業をやめる人間というのは少数派です。
大きな企業ほど、その中で独特の村社会を形成しており、辞めて行った人間と仲良くしようものなら村八分にされるような雰囲気を感じます。
そして、辞めて行った友人たちも、まだそのような組織の中で生きているかつての同僚たちに向かって本音で語り合うことはできないのです。
なにせ、その村よりも他の村の方がいい!と心の底では思って出て行ったことは事実なわけですから。
このような友人たちと、心の底から語り合えるようになったのは本当に大きな価値です。
取り戻した、という感覚の方が近いかもしれません。
もうひとつ、自由については時間的な自由というよりは、意思決定の自由です。
大企業において、意思決定とは上にお伺いを立てて承認してもらうもの。それは人事も然りです。
自分のキャリアを希望しても、それを叶えるかどうかは上司および人事部次第なのです。
転職すればもちろん、上司は自分で選ぶことができます。
面接に出てくる人が上司ですから、その人がいいと思えば選べる立場にあるわけです。
その代わり、意思決定を誤ったときの保証はいっさいなく、全て自分に跳ね返ってきます。
具体的には金銭、もしくは時間を搾取されるという結果になります。
しかし、これは世の理として当然のことであり自由とは責任を伴うものなのです。
責任なき自由は見せかけにすぎず、ただ誰かの決めた枠の中で泳がされているだけというのに気づいていないだけです。
どうして辞めたのか
退職することを伝えたとき、一番多くの人に聞かれたのがこの質問です。
暗に「そんな大企業を」「こんな安定した地位を」捨てるのかということを意図していると感じます。
前職はサービス残業も一切なく、有給も100%消化。それでいて給料はサラリーマン平均をはるかに上回るという絵に描いたようなホワイト企業でした。
大企業もリストラをする時代と言われて久しいですが、リストラされる可能性は大企業の方が小さいに決まっています。
あのまま勤め上げていれば、子どもにも裕福な暮らしを約束してあげられたことでしょう。
事実、大企業をやめるということは生涯賃金において数千万円を失う可能性のある判断です。
論理的に考えれば、とてもするものじゃあありません。
でも、わたしはもっと論理的に考えたわけですね。論理的に考えて考えて、やめるという判断が合理的だと思って転職を決断したわけです。
なお、「なんで辞めるの?」という聞き方をするのって、辞めたことない人だけなんですね。
一度でも転職を経験したことのある人からは「次はなにをするんだい?」と聞かれることの方が多かった印象です。
こちらの方が未来志向で、聞かれて心地よかったですね。
子どもの存在
わたしが会社を辞めたきっかけとなった一番の出来事、それは子どもの存在でした。
普通は子どもがいれば辞めづらくなるという考えが一般的だと思うのですが、わたしの場合は逆でした。
まだ歩くこともできない子どもを見ながら、今から30年後の2050年、この子が30代を迎えたときに一体日本は、世界はどうなっているのだろうか、ということに思いを巡らせました。
2050年、わたしはもう定年を過ぎ職業人生は終わりに近づいているでしょうが、今5歳以下の子どもたちはまさにキャリアの最盛期にいます。
今ですら世界でも稀になっている終身雇用を貫いた日本の大企業を、これから先30年間勤め上げた父親の後ろ姿を、子どもはどういう目で見るんでしょうね。
これからの時代、仕事のオンとオフという境目はITによってより緩やかに取り去られ、生きるように働く、働くように生きる人たちが主流になってくるとわたしは考えています。
より多くの人が、世の中に本当に価値を提供できるプロジェクトを推進する人物や組織にだけ、自身の労働力を預け、対価を得るようになります。
そして、プロジェクトの終了とともにいずこかへと散っていきます。
こんなプロジェクトベースの働き方が当たり前の世の中になると信じています。
やることは曖昧だけど、とにかく毎日8時から17時まで頭と体を拘束されるような働き方に生涯を捧げるのは、まだ生産性の低かった過去の時代の悪習と捉えられていると予想しています。
ラップトップとスマホがあれば、いつどこにいようがほぼ同じ生産性で仕事ができます。
Slackに代表されるようなチャットツールを使って、いつでも気軽に同僚とコミュニケーションを取りながら、物事が進行していきます。
新しい職場では、気づけばメールもほとんど使わなくなりました。
オフィスというのは、ちょっと大きいPCモニターと、だれか居るかもしれない、他よりもすこーしばかり便利な場所、というくらいの捉え方が主流になりそうだと感じています。
そして、そろそろこういう環境に最適化された人材にならないと、時代遅れの人間になってしまうという人材価値に対する危機感が、目先のわずかな収入減に勝ると判断したわけです。
まとめ
ある日、まだつかまり立ちを始めたばかりの子どもが転んで、家具のカドで頭を打ちそうになりました。
しばらく見ていると、また立ち上がって同じところを歩き出そうとします。
『危ないからやめなよ』と何度も心の中で思ったのですが、なぜか声をかけられませんでした。
なんというか、「これができなければ、ボクは将来ひとりで生きて行けないから」と言われた気がしたんです。
ここまで全力でリスクを取りに行ったことなんて、もう何年もしてないなぁって、思わないでしょうか。
わたしたち親の多くは、まだ歩いて間もない子どもたちを10時間近くも保育園に預け、一日中働いていますが、その仕事にそれだけの価値はあるでしょうか?
働いてお金を稼いで、もっと裕福な暮らしをさせてやりたいという気持ちはわたしもよくわかります。
大企業に勤めている人は、一般的にその地位を得るまで学生時代から何十年も我慢してがんばってきたまじめな人たちです。
けれど、都心で買えるマンションが2LDKから3LDKになったら、家族は幸せになるでしょうか。
これらに対して自信を持ってYes!と言えないのであれば、何かを変える時期かもしれませんね。