人間関係の悩みで多いのが、板挟みになることです。
板挟みになって誰かと誰かの間を取り持つことで、両方に対していい顔をしなければならず、時には嘘も交えてやりとりをすることに、心を痛めるようになったりします。
しかし、これで悩む人がいる一方で、板挟みになりたくてもなれない人も世の中には存在します。
芯がある
「板」というくらいですから、ある程度固く、力がかかってもしばらくは折れない耐久力があることを意味します。
その分厚さは人によって異なるのですが、悩める人は皆自分の中にこうあるべきという芯がある人なのでしょう。
芯があるからこそ、それを自ら曲げることに苦慮するわけです。
板挟みにならない人は、自分に強いこだわりを持っておらず、間に入ったとしても両方の立場に自然と共感することができます。
「芯がある」というと立派なことに聞こえますが、言い換えてみれば頑固者であり、自分にそのきらいがあるなと思う人は調整役のようなポジションは向いていないと考えた方がいいでしょう。
頑固者のくせに間に入りたがる人というのは、自分の芯を曲げて相手に尽くすことで、相手からの感謝を得ることに承認欲求を求めています。
感謝するしないは相手の自由なので、このようなところに承認を求めるのは不毛です。
意図的に遠ざかるよう立ち回った方がいいでしょう。
情報管理能力
視線の先に板が現れると、向こう側が見えなくなります。
板挟み人間は情報の流れをコントロールすることに長けていて、対面する相手だけでなく、その周りにいる関係者全員が網の目のように繋がるネットワークを意識して、誰にどの情報を流すかに目を光らせています。
情報の流れをコントロールできるのも才能の一種ですが、自然な状態を妨げようとしているわけですから、長く続くと疲れてきます。
なのですが、板挟み人間は想像力も豊かで、各々の立場も尊重するという心も持ち合わせているので、なんとか持ちこたえようとする傾向にあります。
板挟みの長期化というのも悩みを誘発する原因の一つですが、疲れてきたと感じるのであればそれがもう調整役としての能力の限界だと思った方がいいでしょう。
これ以上板挟みになっても自分にとってよいことはないですから、スッと抜けてしまいましょう。
それで解決するのであれば、そもそも間をとりもつ人間なんて不要だっただけですし、引き続き必要とされるのであればまたお声がかかるはずです。
なお、年単位の調整を続けた結果、板挟み人間が膨大な情報を入手し、情報を意図的に隠蔽したりしてコミュニティの中で自分の存在価値をそこに見出し始める場合があります。
いわゆる「お局」ですね。
こうなると害の方が大きくなりますので、やめましょう。
板挟み人間の成れの果て、行き着くところはここしかありません。
まとめ
正直な話、各個人は大人なわけですから直接話してもらったところで大問題に発展することはまれです。
人間ある程度は各自の中に緩衝領域を設けているものです。
一個の人間そのものが板挟みになるなんてことは、そもそもこの世の中に不要です。
そうなってしまっているのであれば、いかに板挟み人間がいなくてもうまく回るかを探求するようにしましょう。