
イスラム教徒の間で永遠に語り継がれる英雄サラディン。
その名声は、イスラム世界だけでなく西欧世界にも知られています。
オーランド・ブルーム主演の映画「キングダム・オブ・ヘブン」でも、敵側のリーダーとして登場するものの、きわめて聡明な人物として描かれています。
このサラディンが歴史に名を残し始めるのが、聖王ヌールッディーンが地中海沿岸部を除く、シリア全土を支配下におさめ、10年ばかりの月日が流れた1160年代頃のことです。
過去記事:
第一話 アラブがみた十字軍。
第二話 アラブの戦神と小さな希望。
第三話 聖王の治世。公正と平穏の時代。
師匠と弟子
「ユースフ、荷物をまとめろ。出かけるんだ。」
そう語りかけたのは、サラディンこと本名ユースフの叔父、シール・クーフ。
かつてザンギーを助けた縁で、サラディンの父アイユーブはザンギー一族に仕えてきました。
そしてこのころ、アイユーブの一族はザンギーの後を継いだヌールッディーンの配下となって、シリアで戦ってきていたのです。
シール・クーフが向かうのは南の王国エジプトの首都カイロ。
シリアではフランク人との戦いがこう着状態に入って10年近い月日が流れ、くすぶった力の行き先を求めていた頃でした。
エジプトは長くイスラム教国ファーティマ朝が支配していましたが、政治の腐敗が続き、王朝の末期状態にありました。
その状況からフランク人に目をつけられており、このとき政治的に追放されたエジプトの宰相シャーワルが、ヌールッディーンに助けを求たことが旅立ちの発端です。
ヌールッディーンは熱心なスンニ派教徒だったため、シーア派であるファーティマ朝に直接関わることを避けたいという思いから、腹心のシール・クーフに全権を委任することにしたのです。
シール・クーフはサラディンの父アイユーブの弟で、「山の獅子」の異名を持つ戦士。
大酒大食いで疲れを知らず、戦場では無尽蔵の体力で走り回るゲリラ戦の天才とも言えるような人物であり、シリアでの戦いでも大きな功績をあげていました。
ヌールッディーンが拠点を構えるシリアの首都ダマスカスからカイロへの道のりは、最短経路で向かおうすると、沿岸部を支配するフランク人が妨げとなり、非常に困難なものとなっています。
シール・クーフはこれを、少数を率いて主要幹線道から外れた砂漠のシナイ半島を横断することで、フランク人に気づかれることなく電撃的にカイロに先に到達しました。
まだ防備がほとんどないカイロをあっという間に制圧し、あっさりと今回の依頼元であるシャーワルを再び宰相の座に返り咲かせることに成功します。
宰相の裏切り
しかし、再びファーティマ朝の権力を握った宰相シャーワルは、この電撃戦の最大の功労者シール・クーフに対して、こともあろうに即刻エジプトから立ち去るように命令したのです。
シール・クーフは渋々この命令に応じるものの、必ず戻ってくるとシャーワルに伝え、去って行きました。
この報復を恐れたシャーワルは、今度はフランク人と同盟を結ぶことを画策し始めます。
こうして、エジプトを舞台にフランク人とシール・クーフの戦いが幕をあけることになるのです。
神出鬼没
フランク人は宰相シャーワルと形だけと同盟を結んだものの、この疑わしい人物を素直に信用することはできません。
とはいえ、ヌールッディーンにエジプトまで抑えられては困るフランク人は、シャーワルとともにカイロに陣を構え、シール・クーフを待ち構えます。
しかし、このゲリラ戦の天才は一筋縄ではいきませんでした。
早速カイロに現れたシール・クーフですが、フランク人が予想していたのとは反対側から攻めてきました。
慌てて陣を立て直して反撃に出ようとするフランク人ですが、大きなナイル川が邪魔をしてうまくいきません。
ようやく気を取り直してシール・クーフを追いますが、今度は追えば追うほどどんどん逃げて行ってしまいます。
消耗して追うのを諦めたフランク人のもとに、今度はシール・クーフが地中海沿岸の大都市アレクサンドリアを占拠したとの知らせが届きます。
宰相シャーワルに反抗的なこの都市は、シール・クーフを救済者とみて簡単に明け渡したのです。
この事態に慌てたフランク人は、陸と海の双方からアレクサンドリアを包囲にかかります。
シール・クーフは籠城軍の指揮をまだ29歳の青年サラディンに委ね、自身は夜な夜なコッソリとアレクサンドリアを脱出、上エジプトへと去って行きました。
陸と海を閉鎖され、毎日のように投石機の砲撃がやまず、街には疫病と飢餓が広まったこの包囲戦は若いサラディンにとって非常につらいものとなりました。
一方、脱出したシール・クーフは広大なエジプトを縦横無尽に走り回り、各地の部族に蜂起を呼びかけ、フランク人に対して脅しをかけて行きます。
この事態にフランク人は、もともと信用していないシャーワルにこれ以上関わって、シール・クーフに翻弄されて消耗させられるのは嫌だと考えたのでしょうか。
お互いエジプトから軍を引くことを条件に、アレクサンドリアの包囲をといて撤退しました。
結果的にアレクサンドリアは異教徒からサラディンに守りぬかれた形となり、彼は住民から感謝の意を表明されつつ最高の形でこの地を後にすることとなりました。
こうして、エジプトでのシール・クーフとフランク人の第2回戦は引き分けという形で終わりを告げました。
ファーティマ朝の最期
お互い手を引くことを合意したフランク人とシール・クーフですが、フランク人はカイロに少数の部隊を残して行きました。
シール・クーフとしてはこれが幸いすることになります。
フランク人のこの部隊は、住民に対して不当な扱いを続けたため、住民の間には徐々にフランク人に対する不満が溜まっていくことになります。
住民の不満は最高潮に達し、ついにヌールッディーンのもとに正式に救助の要請が届きます。
こうして再びカイロに向けて出陣したシール・クーフですが、フランク人はもはや手のつけられないほど暴れる住民を前に思うように手が出せず、このおかげでシール・クーフは労せずカイロを手にすることができました。
住民から救世主のように歓迎されたシール・クーフは、直ちにこの混乱の元凶である宰相シャーワルを処刑し、自ら宰相の座につくことになりました。
師匠の死と英雄の誕生
3度にわたるフランク人との戦いを制しエジプト全土を掌握したシール・クーフですが、そのわずか2ヵ月後、食べ物を喉に詰まらせて突然亡くなってしまいました。
シリアとエジプトを駆け抜けた戦士の、あまりにもあっけない幕切れでした。
どこか、先代ザンギーを彷彿とさせる最期です。
そして、約5年に及んだシール・クーフのエジプト攻略のすべての手柄は、まだ若いサラディンの元に転がり込んでくることになります。
こうして、イスラム世界のエジプトの地に、権力と名声と若さを兼ね備えた英雄が突然誕生することとなったのです。
まとめ
こうしてみると、エジプト攻略はほぼシール・クーフの手柄と言って差し支えないですね。
父ではなく叔父のシール・クーフについていったサラディンは、彼に何か自分にないものを求めていたのでしょうか。
もしかすると、師匠と弟子のような関係だったのかもしれませんね。
サラディンがその座についたのも、まったくもってラッキーと言わざるを得ませんが、師匠からの最後のプレゼントのようにも思えます。
このあとの彼の英雄譚も、師匠とのこの苦しい日々があったこそなのかもしれません。