異文化コミュニケーションを語る際に、「コンテクスト」という言葉がよく使われる。日本語には訳しづらいのだが、しいていえば「前提」のようなものだ。私たちが言葉を発する際、そこには言葉に言い表さない前提がいくつも含まれている。会話を海に浮かんだ氷山になぞらえて、水面から出ている(=言葉として発する)部分に対して水面下に沈んでいる(=言葉に表さない)部分が多い状態を「ハイコンテクスト」といい、その逆を「ローコンテクスト」という

日本は超ハイコンテクストな国

国際的に比較した場合、日本はトップクラスにハイコンテクストな文化を持つ国である。これは、周囲を完全に海に囲まれた島国という地理的条件と、歴史を通じて単一民族による支配が覆されることがなかったという歴史的条件の両方が揃ったことによって出来上がった。逆に古くより民族が移動を繰り返し、多くの文化が混ざり合ったヨーロッパ諸国や、その流れをくむ北アメリカ、”華僑”として周辺諸国を渡り歩いた中国などはローコンテクストな部類に入る。しかし近年、急速なグローバル化と日本経済の縮小傾向が合わさって、日本に住む我々庶民にもローコンテクストな文化との融合が、次第に影響を及ぼしてくることは間違いない。

ビジネスから世間へ

日本人には「察する」という特徴がある。なにも言わなくても、その場の状況や相手の表情から自分に求められていることを察知する能力だ。会議でだんまりを決め込んで後ろの方に座っている偉い人を見かけるが、日本人だけの会議では居るだけで意味があった。無言の圧力というやつだ。しかし、ローコンテクストな人たちにとっては言葉を発しない人間はその場には居ないも同然だ。かつて勢いがあった頃の日本人は、ゾロゾロと何人も連れ立って海外出張に出かけ、ミーティングではほとんどの人が言葉を発することなく帰途についていたようだ。当時世界を席巻していた日本人を理解しようと、外国の方々は随分と苦労なされたらしいが、国際的影響力・経済力が低下した今やもうどうでもよくなっているだろう。そして、工業地帯に職を持つブラジル人が多く暮らす群馬県大泉町や、少子高齢化に伴って無人に近くなった団地に大挙として押し寄せたベトナム人の事例のようにその影響は身近な暮らしへと広がってきている。

大事なのは会話の「量」

中国人やアメリカ人を見ると、随分しゃべりまくっていると思わないだろうか。言語のせい、ということもあるかもしれないが、言語はコミュニケーションの為の道具なので、使う人たちが伝えたいことに最も適した形に合わせて進化してきたという考え方が適切だろう。すなわち、ローコンテクストな文化では相手に伝えなければいけないことがとても多い。一回で伝わらないことも多い。そりゃあ早口にもなる。百歩譲って、仮に中国人が日本語ペラペラになったとしても、ものすごくよくしゃべると思わないだろうか。私には少なくとも関西のオバちゃん並みに話すと思えてならない。しかし、逆に考えて見るとそんな関西のオバちゃんのような人ほど、ローコンテクスト文化との折衝に向いているということにならないだろうか。

まとめ

私は結構楽観的で、庶民的な暮らしの中では、異文化コミュニケーションはそれほど問題にならないのではないかと思える。井戸端会議好きな近所の奥さん達の中に、外国人はすんなり溶け込むだろう。問題なのは、ずっとコミュニケーション方法を改善することなく仕事だけして生きてきたような仏頂面の男達だろう。