
子ども服屋の託児コーナー(プレイマットのまわりにおもちゃが置いてあるゾーン)は、時にお父さんたちの溜まり場になります。
ママから「買い物してるから、面倒みといて!」といわれ、ハァ…というため息とともにヘタリと座り込んだお父さんたちのまわりで、子どもは気ままに遊んでいます。
そんな同じ境遇のお父さんたちには多少共感もわくのですが、せっかくの機会なので観察して勉強させてもらうことにしています。
今回気づいたのは、思ったよりもみんな子どもを見ていないということです。
オレの管轄エリアから出なけりゃいいよ、という感じです。
観察するということ
『子どもを観察する』ことがいかに重要か、モンテッソーリ教育論では散々いわれてきました。
特に、普段と違う環境に子どもを置いているときは、新しい発見をする絶好のチャンスなんですが、先のお父さんたちはあんまり見ていませんでしたね。
『観察する』ということを日常的に意識していないということはあっても、知っていたとしてもできないときも、おそらくあるだろうなぁとは思います。
そんな、観察を阻害する要因について、3つ挙げてみます。
① 体力
観察は思ったより体力を使います。
といっても使うのは頭なのですが、思考するということはかなり疲れることでもあります。
子どもがひとりで遊んでくれている時くらいは、自分は休息したい、と思ってしまうと、なかなか観察する時間を持てません。
子どもがひとりで遊んでいるときこそ、観察のチャンスなので、集中してみたいところなんですが、つい楽な方に逃げてしまうんですよね。
そのためには、子どもといる時間はずっと休みはありませんので、余力を残しておけるように、他のところで十分に休息を取っておくことが必要でしょう。
② 子どもになりきれない
子どもを観察するためには、子どもの目線になることが必要です。
目線というのは気持ち的なものも含まれますが、時に物理的目線(高さなど)もあわせることが必要になってきます。
子ども目線になるということは、大人目線を捨てるということでもありますので、実はこれは大人に取っては結構怖いことなんですね。
子ども目線になったばっかりに、周囲に目が行き届かず、周りに迷惑をかけてしまったり、時には「あの人なにやってるんだろ」と思われるようなリスクを負わなければなりません。
このリスクをとることを怖がらないというのは、かなり意識的にやっていかないとわかったふりの大人を演じ続けてしまうことに繋がります。
③ 現状を知らない
新しい発見というのは、現在発見されてるすべてのことを知っているからこそ、それが新しいと知ることができます。
大人からみたら、子どものやっている行動は全て自分ができることなので、前までの子どもを知らないと、子どもにとって何が新しいことなのか気づくことができません。
鶏が先か、卵が先か、ですがこれまでの観察がこれからの観察にも必要なわけです。
自分でもよくわからないなぁと思ったら、恥ずかしがらずに奥さんに聞くという謙虚さが大事ですね。
まとめ
子どもを見てあげるというのは結構頭を使うハードワークであるということをあらかじめ覚悟しておいた方がいいですね。
だからなのか、わたしは自分がいっぱいいっぱいになるような人だかりに子どもを連れて行くことは、よほど強い想いがない限りはしません。