
わたしは長いことソフトウェア開発の現場に身を置いてきて、その間にいくつもの開発プロジェクトを経験してきました。
ソフトウェア開発という業界は、新しいようでいてもはや古い業界となりつつあります。
この業界では古くからウォーターフォール(滝)という名前の開発手法が好まれてきました。
それはまるで巨大な家を建てるかのように、最初に計画を決め、設計図を描き、建物(ソースコード)を作り、崩れないことをチェックするという一連のプロセスです。
そしてその連続するプロセスは滝のごとく流れ落ちるだけで、重力に逆らって上昇することは禁じられています。
一度決めた家の間取りは、その後もう変更できないのです。
アジャイルの波
Y2K問題を乗り越え、世の中が新世紀を祝っていたちょうどその頃、遠くアメリカの地でアジャイルは誕生しました。
いくら綿密に計画してもうまくいかないソフトウェア開発に見切りをつけた開発者たちが、それまでの重厚長大型の開発手法へのアンチテーゼとして存在していたいくつかの軽量型の開発手法の、エッセンスをひとつにまとめたことがアジャイル開発のはじまりです。
その内容はアジャイルマニフェストとして簡潔に表現されており、従来型の開発手法に対して「個人との対話」「動くソフトウェア」「顧客との協調」「変化への対応」に価値をおくことがここで宣言されました。
この波は10年以上の歳月をかけて日本にも伝わり、今やソフトウェア開発の現場でその内容を知らないものはいないというレベルにまで浸透しました。
しかし、ここまでメリットが認められたにも関わらず、日本企業のソフトウェア開発現場ではこの手法を取り入れることに対する抵抗が無くなりません。
アジャイルを阻害するもの
アジャイルの導入を阻む理由をあげつらうのは、極めて簡単なことです。
ネットで探せばいくらでも出てきますが、代表的には以下のようなことが言われます。
- 軽薄短小なプロジェクトにしか向いていない
- リスクが予測できない
- 瑕疵担保責任との折り合い
- コストが安くならない
なのですが、どれも表面的な理由なように感じます。
何かもっと、日本人の死生観に関するところに理由があるのではないでしょうか。
責任をとるということ
どんなやり方をとるにせよ、プロジェクトが失敗したら、責任を取らなければなりません。
しかし、この「責任をとる」ということは具体的に何をすればいいのでしょうか?
よく思い出されるのは、マスコミのカメラの前で偉いオジサンたちが一列に並んで頭をさげる謝罪会見の光景ですが、あれで責任をとったと言えるでしょうか?
頭を下げても、起きてしまった問題は何一つ解決しません。
どちらかというと、『頭さえ下げておけば、責任から逃れられる』と思っているのではないかとさえ感じられます。
責任をとる=切腹?
古来からの日本人の責任の取り方で、世界的にも有名なのは『切腹』です。
しかし、この切腹も元はと言えば、責任をとるというよりは派手に死ぬための手段でした。
戦乱でもはや絶対に生き残れない窮地に陥った武士が、後世の名誉のために壮絶な死に様を周囲に見せつける、という目的をもって実行されたものです。
それがその後、武士にとって名誉ある死に方ということで世に認知されるようになりました。
大河ドラマなんかでも切腹のシーンは美化されて描かれることが多いですよね。
みじめに生きよう
派手に死ぬの対義語は、みじめに生きるです。
実はこのみじめに生きることの方が、実際の責任をとることに最も近いのではないかと思います。
起こしてしまった問題を、自ら原因を明らかにし、解決に導くことを主導する。
場合によっては、途中でもっと能力のあるだれかに、その意思を引き継ぐ必要が出てくるかもしれませんが、引き継ぎもなく切腹してしまうのとは違います。
そしてよく考えると、アジャイル開発とははじめからみじめに生きることを決めるようなものなのではないでしょうか。
アジャイル開発は始めてからしばらくの期間(概ね2-3ヶ月間)は、全く成果が上がらないといわれます。
小さな開発で小さな失敗を積み重ねることで、継続的な改善を伴って、はじめて効果があらわれてくるものだからです。
したがって、最初の数ヶ月間は顧客から罵詈雑言をあびせられることも覚悟しなければなりません。
それに比べて、ウォーターフォール開発は気持ちが楽なのです。
武士らしく、顧客に最後まで忠誠を貫き通し、契約書に血判を押し、できなかったら切腹して原因究明は闇の中、という方が日本人の死生観にあっているのでしょう。
まとめ
最後に、ジョジョの名言で締めたいと思います。
人が敗北する原因は…
『恥』のためだ。
人は『恥』のために死ぬ。
あのときああすればよかったとか
なぜ自分はあんなことをしてしまったのかと
後悔する
「恥」のために人は弱りはて
敗北していく
〜中略〜
これは試練なのだ……
このことを勝利のために変えれば良いのだ
− ジョジョの奇妙な冒険第6部より エンリコ・プッチ神父
そういうことですね。アジャイル開発の導入は我々日本人に課された試練なのです。