
モンテッソーリ教育講座を終えて、改めてそのメソッドが素晴らしいものであることが理解できたと同時に、子どもにとって危険な側面も備えていることがわかりました。
教師としての専門知識を備えたからこそ、いまここで危険性について言及しておくことは重要だと思います。
リスクは大人
モンテッソーリ教育が誤った方向に行く可能性があるとすれば、それは子どもをとりまく人的環境、すなわち大人がその役割を誤った方向に振りかざしたときに起きうるということです。
モンテッソーリの教育は「子ども」「大人」「環境」の3つが揃って成り立つものでありますが、このうち「子ども」と「環境」はただそこにあるだけですので、間違いようがありません。
間違うとすれば大人が子どもに対して働きかけるときと環境に対して働きかけるときの2つのパターンしかありえません。
子どもとの接し方を誤る
モンテッソーリ・メソッドには過去100年間で培われた多くのノウハウが詰め込まれています。
だからこそ、実践に移るとそのhow-to、すなわちやり方のところに目が行きがちになります。
円柱さしを持つときには、3本の指で丁寧に持たないといけないのだが、先に人差指と親指から添えるべきか、中指から添えるべきなのか迷ったとします。
そのとき「わたしはモンテの先人からから人差し指から添えるように習ったんだから、そうしなければならない!」と大人が考えてしまうことが危険なのです。
持ち方の順番なんてものは、どっちだっていいのです。
ペンの持ち方を教えたいから、ペンを持つときと同じように人差し指と親指から添える、手の動きがよく子供に見えるように中指から添える、どっちだって正しいです。
目的は子どもの発達であって、教具の使い方を覚えることが目的ではないのです。
目的を履き違えると、子どもにとってモンテッソーリ教育は、ただ道具の使い方を大人から口うるさく指導されるだけの、従来の暗記教育かそれ以上に息苦しく、つまらないものになることでしょう。
こう言われるとごくごく一般的で「そんなことはわかっている」と思えることですが、案外難しいですよ。
高いお金か多くの時間を費やして教具を準備したとして、子どもに「そんなの興味ない」とそっぽを向かれた時でも、前向きに平静に対応することができるでしょうか?
それができる自信がないのであれば、むしろやらない方がいいとさえ思います。
環境の整備を誤る
子どもは大人が用意した環境から自発的に吸収して、発達していきます。
逆に言うと、大人が用意した環境からしか吸収することができないのです。
今自分が用意している環境が、子どもが生きる20年後の社会に必要とされる要素がはたして含まれているのかどうか、考えたことはあるでしょうか。
未来は誰にもわかりませんが、現在の技術の進歩、社会の向かう方向、経済の発展や衰退をよく観察し、自分の頭で考えて子どもに示していかなければなりません。
モンテッソーリ教育を学ぶと、先人が築き上げた科学的分析の知識の山に圧倒されそうになり、思わずそれを無思考に追従することしか考えなくなりがちです。
日常生活の練習の中に、「洗濯板で衣服を洗う」という練習がありますが、わたしは過去30年で洗濯板を触ったことはありませんし、これからも触ることはないでしょう。
もちろん、洗濯板で洗うことが日常生活の練習の目的ではなくて、その中に含まれる粗大運動や微細運動を習得することが目的なので、それ自体を批判しているわけではないのですが、そういう思考を持たなければならないのだということです。
まとめ
モンテッソーリ教育講座の冒頭と最後に、講師の方から以下のような講釈がありました。
「子どもにどういう環境を用意してあげるのがいいのか。それは教師であるわたし達ひとりひとりが考えなければならないのです。教育のメソッドが示してくれているのは、その中のひとつの拠り所であって、全てではないのです。」
「我々モンテッソーリの伝道者たちは、日々臆病なモンテッソーリ教師たちを世の中に送り出していることに危機感を感じています。マリア・モンテッソーリの作り上げたメソッドから外れた提示を行うことを過剰に恐れ、その臆病さの代償を子どもたちに転嫁しています。」
モンテッソーリ教室を見に行くと目にするかわいらしい教具と、黙々と作業に打ち込む子ども達。
われわれ大人はつい、目の前に見えているものに心をとらわれがちですが、それはきわめて表面的で、危険性をはらんでいる捉え方であることを意識していなければなりません。