日本は豊かな国です。

GDPは衰えたとはいえ未だ世界第3位であり、ひとたび外国に行けば路上の景観はいかに日本の方が綺麗に保たれているか実感できます。

しかし、なんだかそこに焦点を当てると、本来直視しなければならないこの国に蔓延するなんとも言えない息苦しさを見過ごしてしまうような気がしています。

数年前に日本を訪れたヒマラヤの小国、ブータンのワンチュク国王に、あるテレビ番組が「どうしたらそんなに幸せな国を実現できるのですか?」という内容の質問をしていたのが記憶に残っています。

ワンチュク国王の返答は、「日本はGDP世界第3位の経済大国でありながら、いったいどこにこれ以上の幸せを望むのでしょうか?」というものでした。

その回答に会場はシーンとなって、その場は流されてしまったのですが、妙に引っかかる返しだったんですよね。

一見、経済大国である日本を讃えているように見えるのですが、まるで「幸せは経済の中にはないことに、早く気付くべきだ」という、警告に聞こえました。

 

自動販売機型社会

これまでの人生を振り返ってみて、日本社会というのは弱い部分を無意識に切り捨てられるように、本当にうまく社会システムが構築されているように感じます。

中学、高校、大学、社会人とまるで仕分け機械にかけられたように機械的に選別が行われていきます。

そして、各階層にいる時、同じ状況の友人とはいとも簡単に同質化するのですが、逆に異なる道を歩んだ過去の友人は、今何をしているのか、どこにいるのかすら気にならなくなります。

そして、また同じステージで巡り合わない限り、人生においてほとんど交わることは無くなります。

とはいえ、根本的に仲が悪かったという訳でもなければ、久しぶりに再開すれば過去の関係性をいとも簡単にその場に復元することができますので、個人と個人の問題ではないでしょう。

このように、階層間が意図的に見えづらいように作られている社会というのは、逆に他階層に対する恐怖感を煽るという効果を発揮します。

すなわち、「今目の前にあることから逃げたら、もっと悪い状況に陥るぞ」という恐怖を全ての階層の人たちに与えているのです。

 

生活のベースライン

日本社会において階層は目に見えませんが、ひとつだけ明らかなものがあります。

生活保護の受給ラインです。

生活保護は、言い換えてみれば日本国憲法第25条に規定されている『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』という一文を、日本円に換算して表したものだと言えます。

実際、厚生労働省の制度説明にもそのように書いてあります

生活保護で支給される金額は、「世帯構成」「年齢」「収入」「居住地」「その他制約」によって決まってくるのですが、例えばわたしのような夫婦二人、子供一人世帯だと最大で年間200万円弱になります。

言い換えてみれば、上記世帯構成で年間200万円なければ、健康で文化的な最低限度の生活を営めず、安心して職探しもできないということになります。

わたしは年間の支出を帳簿につけていますので、だいたい感覚的にも一致していることがわかります。

 

風当たり

問題なのは、生活保護受給者に対する風当たりが非常に強いという点にあります。

これは国の制度ですので、条件に合致すれば受給できるのは国民の権利なのですが、不正受給問題もあってか、感情的な批判が渦巻いているように思えます。

よく挙げられるのは、生活保護費をパチンコに費やしているからけしからんというようなものですが、別に何に使おうが本人がそれでいいのであれば構わないと思います。

これからは自動化の時代ですので、無理に働かれて組織全体の生産性を損なわれるくらいなら、何も関係ないところで自由に生きてくれていた方が、社会全体にとっては都合がよいように思います。

そういう寛容な考え方を持つ人が多数になれば、もっと生きやすい世の中になるのではないでしょうか。

日本という国に生まれた以上はどんな人間であろうが最低限を保証する、というのが国の方針ですので、この国で生きていくと決めたのであれば、税金を支払う側でももらう側でもその義務と権利は等しく行使できなければなりません。

 

まとめ

結局階層間の恐怖というのは、落ちるところまで落ちた最低ラインを見ることになってしまうのですよね。

ニュースなどで世間の生活保護に対する風当たりの強さをみながら、自分もこうなってはいけないと思い込んで自分を追い詰めてしまっているわけです。

そして、追い詰められた人ほど他の階層にいる人たちを非難する傾向がありますので、現在は負のスパイラルに入っているように見えます。

これらの問題の根幹は感情論に行き着いてしまうように思いますので、そうなると解決方法は世代交代になるでしょうね。